曹洞宗の教え、開基長谷川家の歴史、そして信香院について色々とご紹介しておりますので、是非ご覧になってみて下さい。
住職 髙田 路久(たかだ ろきゅう)
創立年度は不詳である。昔、当院は道明会下と称し多くの僧が集り修行する道場であった。
永正14年(西暦1517)秋、暴風雨により建物大破の為に開山通山芳釈和尚は小川城主長谷川治郎左衛門正長に相談をした結果、 堂宇を建立し長谷山信香院と称した。故に当院の開基は正長である。
永禄11年冬に、武田信玄の兵火に遭い堂宇は悉く灰燼に帰した。 元亀3年12月22日、正長三方原にて戦死した。当院に墓地がある。 天正14年(西暦1586)二世法慶和尚再び堂宇建立、慶安元年7月徳川家光より朱印地高四石五斗を賜う。
安政元年の大地震にて堂宇傾斜、再び喜捨を募って修理した。 昭和12年本堂改築する。 昭和60年本堂建立50年を記念して、本堂の屋根葺替工事をなす。
信香院の御本尊は十一面観音で、 現在まつられているお像は、十代住職時代の西暦1687年(貞享4年)に安置されました。 十一面観音は「十一の顔を持ち、十方に目を向けて救いを求める人を一人も見落とさない」お姿とされています。
十一の顔は、「頭上の十面に本体の一面とを合わせて十一」というのが基本形です。 しかし仏像制作者の独自の考え方次第で、別の刻み方も多いようです。
信香院のお像は、頭上の正面に少々大きい顔が一つ、左右にやや小さい顔が四つずつで、本体と合わせ十面です。 だが、頭上正面向きの顔が、左右より大きいのは二面の役割を持つ――という作者の考え方だと解釈すべきでしょう。
信香院のご本尊は、本体の中に「胎児仏」を内蔵されております。胎児仏は「亡くなった人の菩提のために生前の念持仏を収めた」もので、 観音の十一とは別の意味、“胎内からは救いを求める人に目を配る重任を果たし得ない”と考えればよいでしょう。
この御本尊は今日まで約三百二十年ほどの歳月、檀信徒に優しい救いの目を注いで来られました。 自然災害も少なくない海沿いの本堂の中でです。 一例として元禄の大災害のおり、仏前で必死に祈る人々に、やさしい御姿で救いを誓われたという伝説も残っています。
会下の島に何時のころからか道明会下という僧たちを教育する道場ができていた。 これが1517年=永正14年秋の暴風雨で大破した。それを通山芳釈という和尚が当時の小川城主長谷川氏の支援で復旧整備、長谷山信香院と改称して開山となるとともに長谷川正長を開基とした。
その後、約500年の間に31人が住職となって、檀家の支持のもとに、曹洞宗の法燈をまもり宗教活動を続けて現在にいたっている。この間、武田勢の焼討ち、度かさなる自然災害、明治維新の廃仏棄釈など困難は多かったが、その都度、住職・壇信徒の熱意で、伽藍復興など逞しく立ち直った。
開山(かいさん)とは |
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開基(かいき)とは |
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会下(えか)とは |
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林(りん)とは |
修行者の修行する所の意味も。 |
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雙と叟 |
林叟院は会下の島時代は林雙院で、坂本移転後に林叟院。 |
長谷川氏の故地 |
大和国長谷川。 |
会下のつく地名 |
角川地名大辞典によると全国各地にある。 |
長谷川正長は法永長者といわれた小川城主正宣(墓碑は林叟院)の孫で、 今川義元・氏真に仕えて徳一色域(田中城の前身)主となったが、元亀元年(1570)武田信玄の攻撃にあって支えきれず、 遠江に逃れたのち、徳川家康に仕えた。元亀3年12月2日の三方原の戦いでは、武田勢を相手に奮闘したが討死し、この信香院に葬られた。 正長の3人の子供正成、宣次、正吉は、家康及び秀忠に仕えていずれも旗本になった。
なお、この墓碑は林叟院の正宣夫妻の墓碑とともに、 正長の三男正吉の子孫である旗本長谷川栄三郎正満(遠江国城東山名両郡のうち4070石)が、 享和2年(1802)に再建したものである。小川港に隣接してたつ曹洞宗長谷山信香院は、永正14年(1517)秋の暴風雨で前身の道明会下の堂字が大破したために 通山芳釈和尚が小川城主長谷川正長の力を得て再建し、このときから長谷山信香院と称したという。このため通山芳釈和尚を開山、長谷川正長を開基としている。
墓地には信香院の開基である長谷川正長の墓碑がある。 墓碑の正面には「元亀三壬申年 当院開基長谷川殿前紀州大守従五位下林叟信香大居士 十二月二十二日」、 右側面には「嵩享和二壬戌歳十二月」、 台座には「小川治郎左衛門之尉三代 俗名長谷川紀伊守正長 九代之孫長谷川栄三郎正満再建」と刻まれている。